普通の人間一日目

先月19歳になり、何か新しいことを始めようと思った私は

 

   ブログを書いてみよう!  

 

と思い立ったはいいものの持前のずぼらさを発揮し、ようやく今日パソコンにむかいました。

私の興味の赴くままに書いていこうと思います。

 

今日は日本の民俗学を確立した柳田国男さんの『遠野物語』についてです。

この本は柳田国男さんが岩手県の遠野郷での言い伝えやその土地の習わしなどを鏡石君という人から聞いて書かれたものです。

河童や座敷童の話、息子が母親を殺そうと鎌を研ぐ話、霊、山男の話などとても興味深く、読んでいて面白いものが多かったが、しかし

なぜか途中で飽きてしまって他の本に浮気してしまったのです。

 

そして数か月が経ち

 

久しぶりに遠野物語を手に取り、巻末にある三島由紀夫さんが書かれている解説を読んでみました。その解説は『小説とは何か』という題名で書かれていました。

そこには「本来小説ちゅーもんはこういうもんだろ」ということを遠野物語の中の一つの話を具体例として使い、述べられていました。

この遠野物語記録文学かと思って読んでいた私はこの解説を読んで、というか読みながら自分自身を恥じると共に自分の読む力の無さに失望しました。また、小説は如何にして読んだらよいのかということがうっすら分かったような気がしました。

それでは

私の心に刺さった一節をご紹介します。

 

これはただ、山村できいた柳田氏の聴書にすぎぬではないか、という人もあろう。小説に告白をしか求めない人は、言語表現が人に強いる内的体験というものを軽視しているのである。(柳田、2016、新潮文庫)

 

そういえばあまり読書中に文にこだわって読んでないなぁと痛感しました。

 

最後に

今読んでいる本が読み終わったら遠野物語をもう一度読み直してみようかなと思いました。

もしかしたら、飽きて他の本に浮気しちゃったのも妖怪のせいかもしれないよ

 

参考文献 

柳田国男遠野物語』 2016年 新潮文庫